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文月の由来や語源について考えてみた
七月(文月)
 

文月の由来や語源について考えてみた

「文月って何月のことかいえる?」ととっさに聞かれると、古文好きの方はともかく、すぐには出てこないという方は多いのではないでしょうか。文月とは、7月をあらわす和風月名のことです。卯月、弥生から始まり12か月分の和風月明を暗記した記憶がよみがえります。この夏のひと月をあらわす文月には、実は様々な興味深い由来やエピソードが隠されています。

7月の別名「文月」はいつ? 名前の由来は?

旧暦の7月「文月」は現在の8月中旬から9月中旬にあたる

文月は、「ふみづき」もしくは「ふづき」と呼び、7月の旧暦で使用していた和風月名からくる呼び名です。一説には、稲の穂が実る月=穂含月(ほふみづき)という連想から生まれた呼び名だといわれています。「ふみづき」は夏真っ盛りの7月を指す呼び名なのに、稲穂が実る、という意味を含んでいることに、奇妙な違和感を覚えます。しかし、和風月名は、現在の暦より約一か月遅れの旧暦の季節や行事に合わせたものです。そのため現在の季節感とはひと月ほどずれがあります。

「文月」の名前の由来とは?

現在でいえば8月中旬に当たる「ふみづき」は、まだまだ暑いけれど、秋の気配を感じる季節でもありました。この季節の月になぜ「ふみづき」という名がつけられたのでしょうか。「ふみづき」の由来、語源は先ですでに触れた「穂含月」または「文披月(ふみひろげつき)」になると考えられています。

文月の別名「文披月(ふみひろげつき)」の意味は?

藤原定家とともに「新古今和歌集」の撰者(せんじゃ)、藤原有家の歌集「蔵玉(ぞうぎょく)和歌集」にある歌「七夕の逢ふ夜の空のかげみえて書きならべたる文ひろげ月」に「文披月」が登場します。この歌のなかの「書」とは、詩歌などを書いた手習いの書のことでしょうか? それとも書物のことなのでしょうか? このころの「文披月」の文の意味には、中国から伝わった七月(文月)には経典と衣服の虫干しをする習慣があらわす通り、経典他書物を表していたと予想できます。旧暦の8月にはからりと晴れた夏空が広がり、大切な書物につく虫を追い払い、湿気から守るために最適な季節だったのでしょう。なお、藤原定家の末裔にあたる京都の冷泉家(れいぜいけ)では、今なお平安の面影が残る文月の行事である「乞巧奠(きっこうでん)」が催されています。先にご紹介した中国で行われていた女性たちの染織技術や手芸技術の向上を祈る七夕行事です。冷泉家では、まず祭壇「星の座」を設けて糸や針を並べます。そしてその前には様々な海の幸や山の幸をお供え物とし並べ、季節の果物野菜、豆類などの農作物も皿に盛られて並べます。お供え物の品目は、「うり(瓜)なすび(茄子)もも(桃)なし(梨)からのさかづき(空の盃)に ささげ(大角豆)らんかず(蘭花豆)むしあわび(蒸蚫)たい(鯛)」と、冷泉家らしく一首の和歌になっているところが心憎い演出です。またすべて二組用意されているのは、それぞれ彦星と織姫への供え物だから、というのも、雅な平安貴族文化ここにあり、という一瞬にして平安の昔にタイムスリップしたような気分にさせられます。

文月の別名「穂含月(ほふみづき)」の意味は?

稲の穂が実る月という意味の「穂含月」も文月の異称とされる呼び名です。この呼び名の由来は、「穂見祭(ほみさい)」という行事とかかわりが深いものと考えられています。穂見祭とは、旧暦の7月、現在の8月の時期に行う先祖祭りのことを指しています。稲穂が見える月ということから穂見祭と呼ばれるようになりました。また豊作祈願及び豊凶占いの神事式を指すこともあります。

「文月」に行われる行事などから見られる季節感

「文月」に見られる行事やイベント

・七夕

「ふみづき」、すなわち7月に行われる日本情緒あふれる風習といえば「七夕」です。織姫と彦星の悲恋物語でよく知られる七夕は、その字が示す通り「七月七日の夕刻、夕べ」を表しています。彦星(牽牛:けんぎゅう)と織姫星(織女:しょくじょ)のふたつの星が、年に一度天の川を渡って巡り会うという何ともロマンチックな伝説です。織姫はその名が示す通り、機を織る女性を象徴する星です。七夕伝説の大元である中国では、女性たちは七夕の夜に織姫星に機織りが上達するように祈願しました。祭壇を設けて糸や針、布などを供え、機織り祈願の風習はそのまま日本に伝わり、平安時代には女性の手工芸の上達を祈願し、織姫と彦星の再会を祝い、貴族たちは管絃や詩歌の宴を催し楽しんだといわれています。ただし、もともと七夕は8月始めだったのですが、新暦になった現在ではまだ梅雨が明けない7月上旬に執り行われるようになりました。そのため、毎年なかなかスッキリと晴れた空に天の川を見ることができなくなってしまいました。

・相撲の節会(せちえ)

奈良時代から平安時代にかけて行われた宮中行事のひとつに「相撲の節会」があります。射礼(じゃらい)や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた行事で、当初は七月七日に行われていました。そのため七夕の行事と一緒に盛大に取り組みが行われていました。しかし、淳和(じゅんな)天皇の時に平城天皇の忌日と重なることから、16日に改められ、また次に25日に決められたのです。相撲は古代より農作物の豊穣を祈る神事の一環として行われていました。宮中に取り入れられてより、毎年七月には名だたる相撲取りが集まり、天皇陛下、貴族たちの前で取り組みを行いました。相撲の節会の最古の記録は、聖武天皇の時代の726年になります。