「たのみの節句」とはどういう行事の日?
たのみの節句とは、旧暦の8月1日の八朔に行われていた農作物の豊作を願って、収穫の前にお祝いをしていた日です。このページでは、たのみの節句がどのような日か紹介しています。近年ではあまり省みられることのない、たのみの節句ですが、かつてどのような行事があった日かを知ると、日々に変化を付けるアクセントになるかもしれません。
目次
たのみの節句とはどういうものか
たのみの節句の由来
たのみの節句は、夏から収穫の秋へと季節が移り変わる時期にあって、農作物の収穫を前に、田の神様に豊作を祈願するお祭りの日です。このような、まだ無いものがきっと有るように願って、この場合、収穫前に豊作を前祝いすることを予祝儀礼(よしゅくぎれい)といいます。穂出し・穂掛けなどの飾り付けをして、たのみの節句では収穫の前祝いをしていました。このたのみの節句には、田の実、田実、恃怙、憑などの字が当てられることがあります。田実などは、田の字と実るという字が入っていて、いかにも農業に関する祭りのような感覚になりますが、恃怙はどちらの漢字にも「たのむ」「たよりにする」という意味があります。たのみの節句の「たのみ」とは、作物の豊作を祈る(たのむ)日ということから、日頃よくたのみ事をする相手に、新しく収穫した穀物を贈る風習が生まれました。
この、たのみの節句に贈り物をする風習は、鎌倉時代には存在していたようです。また、農家の間から町人達の間へと、贈答品のやりとりをする風習が広まっていったようです。
たのみの節句があった八朔
たのみの節句が行われていたのは、旧暦の8月1日で、八朔にあたります。八朔というのは、8月の朔日(ついたち、さくじつ)ということを省略したものです。また、朔日とは新月の最初の日ということを表しています。つまり、現在の新暦を用いたカレンダーの上では、8月下旬から9月下旬のどこかに当てはまります。なお、新暦の8月1日をそのまま八朔として用いる場合もあります。
先に紹介した贈答品のやり取りは、武家の間へも広がっていました。武家社会では八朔の祝いと呼んで、主従関係をより強固なものにするために贈答品のやりとりをお互いに行ったといいます。この八朔の祝いの贈答の風習が盛んになりすぎて、規制が入ったという話もあるそうです。体面を重んじる武家ならではの話なのかもしれません。
ちなみに、八朔は徳川家康が江戸城に入城した日でもあります。そのため、八朔は徳川将軍家には非常に大切な日とされていました。八朔の日には江戸城へと大名達や旗本達が参じて、主君である将軍に祝辞を述べていたそうです。また、江戸つながりでは、吉原の遊女達が白無垢の小袖を着て八朔を祝ったという話もあります。
現存するたのみの節句(八朔)の行事
八朔の贈答の風習は、いまやほとんど見受けられません。贈答の風習はお中元とお歳暮がすべて持って行ったかのようです。普段から頼みごとをする頼りにする人達への感謝という意味では、京都の祇園の舞妓さんや芸妓さん達が、唄や踊りの師匠やお世話になっている方のところへ、八朔のあいさつ回りをするしきたりが、現在に未だ残る、たのみの節句といえそうです。当日(新暦の8月1日)は、祇園の街を挨拶のために舞妓さんや芸妓さん達が行き来する様子を見ようと観光客がつめかけるそうです。
また、八朔祭りとして、たのみの節句のお祭りの息吹きが今に感じられるものも幾つかあるようです。たとえば、山梨県の都留市の地元では「おはっさく」と呼ばれる八朔祭りが、生出(おいで)神社の秋の祭りとして行われています。このお祭りでは、大名行列が目玉のようです。また、京都松尾大社(きょうとまつおたいしゃ)の八朔祭では、奉納相撲に神輿、盆踊り等の行事が行われています。そのほか熊本県山都町でも山車を引き回し、豊年祈願と商売繁盛を八朔祭りが行われています。このお祭りの山車は地元の自然から素材を調達して造られた「お造り物」というそうです。
たのみの節句や八朔のギフト
たのみの節句や八朔の日にプチギフト
はっさくという音を聞けば、多くの人が連想するのはかんきつ類の「はっさく」ではないでしょうか。果物のはっさく発祥の地である広島では、はっさくを大福餅の餡に使用して、ハッサク大福として銘菓が生み出されています。はっさくの果実を白餡で包み、それを餅で包んだ大福餅となっています。八朔前後によそのお宅を訪問することがあれば、こういった季節の果物を使ったお菓子を贈り物にして、話のタネのひとつにしてみるのもいいのではないでしょうか。
このように、今はもう見る機会があまり無さそうな、みのりの節句や八朔の贈答の風習をちょっとしたギフトで現在に復活させてみるのも気分が変わって良いかもしれません。普段、お世話になっていて、何かちょっとした贈り物をしたいときなど、八朔をそのタイミングにしてみてはいかがでしょうか。
たのみの節句はお中元の原点
ちなみに、たのみの節句での贈答の習慣が現代日本のお中元などに見られる贈答習慣の原点と見る向きもあるようです。確かにお世話になった方、何かを頼みたい方に贈り物をするわけですから、類似性を感じるところです。そこで、ついでにお中元の由来や歴史についても見ていきましょう。
実は、お中元で贈答が盛んに行われるようになったのは近年のことだといわれています。江戸時代まではお中元は贈答儀礼の行事ではありませんでした。それではお中元はどのような行事だったのかというと、元々中国の風習で、旧暦7月15日を中元といいました。これは1月15日を上元、10月15日を下元としたことに対応していて、合わせると三元と呼ばれます。中国の宗教の道教では、この日にもてなしをすると罪を赦されるという考えがあり、盂蘭盆会(うらぼんえ)の先祖への供物、つまり先祖への贈り物の風習が混交し、日本に伝わったようです。そして日本では特に盂蘭盆会に贈答する部分が残っただけでなく、生御霊(いきみたま)と呼んで、まだ存命の父母や恩人、年長者に贈り物をする習慣が室町時代からあったそうです。この生御霊への供物をもって、お中元の原点と見る向きもあります。ただお中元の品にそうめんなど麺類が多数見られたのは、収穫儀礼との関連性も指摘されています。その意味では、収穫の前祝である、たのみの節句の影響が見受けられるのかもしれません。
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